僕のソーセージを食べてくれないか

そうです。私が下品なおじさんです。

そもそも「丁寧な暮らし」ってなんだっけ。

少し前、いろんな場所で見た記憶がある「丁寧な暮らし」という言葉をめっきりみなくなった。

 

コンビニの本棚に並んだどの雑誌を見ても「弁当箱はワッパ」「週末には常備菜作り」「ジャムだって手作り」「器やテーブルコーディネートにこだわる」「ハーブを育てる」なんてものが書かれ、そんだけ他の雑誌と同じ様な特集組んでること自体けっこう雑な仕事じゃねえか、そもそもそんな適当なことばっかり並べてるお前ら自体が丁寧じゃねえよ、なんて悪態をコンビニで立ち読みしながら呟いたのち、缶ビールとウィスキーのポケット瓶と柿の種をかって家でゲームをしながら飲酒後昏倒、なんてことをしていたのだけれど、丁寧な暮らしとそれにかかるような言葉達を見なくなったのは皆がその丁寧な暮らしに辟易したからであろう。

 

そもそもこの「丁寧な暮らし」というものの根底にあったのは、そんなにお金を使わなくても気持ちの持ち様や考え方、行動においてきちんとしていれば生活が豊かで潤いますよ、みたいな思想が存在していたように思う。特に丁寧な暮らしが芽生えてきた初期においては。

 

しかしよくインスタグラムで見かける丁寧な暮らしタグでは、丁寧な暮らしの為に新しい食器を買い、オシャレに見えない山崎春のパン祭りでもらった白い皿やローソンでもらえるリラックマのマグカップなんかは嫌な思い出とともにゴミ箱に放り込んで、その新しい器に見合うように山奥にある自然派レストランまで排気ガスを撒き散らしながら車を飛ばして手作りのジャムを買ってきたら、ホームベーカリーで初めてパンを焼いてみましたつってキンタローの顔みたいな四角いパンと一緒にパシャり、「んーーー!オイシ———!」つって頭ゆらしてるような状態で脳内麻薬ドバドバ自撮りを決めてたかと思えば、満面の笑みとよく分からない柄のストールを頭に巻いてまた写真をパシャりととって「ナチュラリストなワタシ素敵でしょ」という自慢とともに「私の渾身の丁寧な暮らしぶりを見てください!どうも自己顕示欲の塊です!」なんていうのをアピールしているように見受けられる。

 

そういった行動を続けていると確かに一時的には生活が潤うかもしれないが、よくよく考えればそれは生活が潤っているんじゃなくて単純に自己顕示欲が満たされるだけであって、しかもその一時の快楽の為にかかる手間が尋常ではないしその丁寧な暮らしは結局丁寧でもなんでもないし言うなればただの無駄遣いなんじゃねえかって思いますよね私としては。

 

またそのように普段から丁寧な暮らしに慣れていないひとは基本的に飽き症でありめんどくさがりでもあるので結果的に写真を撮る為に1度しか使わなかった木のボウルや竹で編んだカゴや無駄に重い鋳物の鍋やホームベーカリーや枯れた観葉植物やカビの生えた常備菜が生活スペースを埋め尽くすことになるし、そんな感じで家の中が乱れに乱れていたとき、食器棚の奥の方にたまたま残っていたままになっていた山崎春のパン祭りでもらった真っ白な深手のボウル皿を見つけ、その横にあった賞味期限のキレたケロッグコーンフレークを入れてスコーンをつくる為に買ったはいいけれど強力粉がなかったから作れなくて余ってしまった牛乳で流し込んでみるとこれがまた何ともいえずウメエなあ心が満たされるなあなんつってホッと一息つくようになるのは目に見えている(そしてこれは極めて個人的な偏見なのだけれど、こういうやつらはヤストモのドコイコ!とかを見て、そこでヤストモがお勧めした食器や調理器具を際限なく買ってそう。なんというか、まずあの2人の台所がどうなっているのか見てみたい。本当に料理してるのかってくらい、いや、まず料理出来るスペースがあるのかってくらいの勢いで調理器具とか食器買ってるし、一度買ったもの使ったっていう話もほとんど聞かない)。

 

さすればおのずと、ああ、やっぱりこの乱れた生活が自分にとっての丁寧な暮らしなんだなつってセブンイレブンに向かいつつ、棚に並んだ弁当も丁寧な暮らしに感化されたのかは知らんが「半日分の野菜がとれる!」と大々的に書かれていながらその重量は半食分にも満たない様な大きさになっていることを知り涙を流すし、こうなると丁寧な暮らしなんていうのは実際のところこの社会においては悪い存在なんじゃねえのか、なんてことを考えてしまうのは火を見るより明らかであり、それはもう自分で火をつけた後の燃え殻を見たあとなのだからあながち間違いないではないし火はもう確実に燃え盛っている。

 

なので現状出しうることの出来る最適解は、「丁寧な暮らしとは放火魔である」というものであろう。

 

しかし世の中にはそんな放火魔ばかりではなく、実際今現在に至っても丁寧な暮らしをを実践し続けている人がいるはずなのだけれど僕の周囲においては見ることがない。

 

一時期は丁寧な暮らしという単語を見かけるたびに、妻と話をしながら「ではこの柿の種を袋からザザザと口の中に流し込むのは丁寧な暮らしとは相反するのか」「丁寧な暮らしの人は、どこぞの作家さんが作った青や赤色の平べったい皿などに盛るのではないか」「いやいや、丁寧な暮らしの人はそもそも柿の種を食べないのではないか」「では何を食べるのか」「……ひまわりの種?」なんていう、答えのまったく出ないやり取りに興じたりもしていたのだけれど、最近はその単語すら見かけないのでそう言ったやり取りもなくなってしまった。

 

というか、多分僕の性格上、そんな丁寧な暮らしを送っている人達にシンパシーを抱くことすらそもそもなく、むしろどちらかといえばなんとなく好きになれない。

 

なんせ、本当に丁寧に暮らしている人というのはわざわざインスタやツイッターで外に向かって発信しないだろうし、よしんば発信していたとしても【♯丁寧な暮らし】なんてタグはつけないはずだ。これも少し考えれば分かるだろう。

 

人は皆排泄をするしまたその排泄が済んだ際にお尻をふく。しかしそれは当たり前の行動であり、SNS上ではだれも【♯お尻を拭く生活】なんてタグをくっつけないし、おやすみーと呟いた投稿に【♯まぶたを閉じる】なんてタグもつけない。それはもちろん、当たり前だからだ。普通にしていることを誰も口に出したりはしないのだ。

 

そういった、本当に丁寧な暮らしをしている人は意識せずできていることを、あえて意識して生活しようとしているが故に無理が生じていくのだし、そういうわざとらしい丁寧な暮らしの風景を見ていてもなんとなく取ってつけた様な印象を受けてしまうのだ。

 

 

さて話は変わるが、最近めっきり寒くなってきたのだけれど、空気が冷えれば冷えるほど僕の中でソーセージ作り欲が増大していく。

 

これは肉のエマルジョン化や燻製における安全性に繋がるもので、まず気温が高いと肉の液状化が難しくなるので室温が低くなればなるほどソーセージ作りは楽になり、また気温が低いと長時間の燻製でも菌の増殖を気にしなくてすむからだ。

 

という訳で先日、羊腸4m分のソーセージを作ったのであるが、これは量でいうと肉の分量が1.3kg、玉ねぎ半個分、白ワイン200ccにハーブ類や調味料が入るので総重量としては1.5kgくらいとなり、短めに作るとおよそ30〜40本とそれなりの分量のソーセージとができる。

 

僕と妻はあまり大食漢ではないので、できたてを楽しんだ後は冷凍をして少しずつ楽しむのだけれど、料理というものにハマった人には分かってもらえると思うのだが美味しく出来た時は誰かに評価してもらいたくなるのも人の常である。

 

そのため、僕にはその欲求を満たしてくれるソーセージの味見役をしてくれている人達がいるのである。

 

その人達とは妻の長年の友人とその夫、及びその子供なのだけど、今回ももれなくその御三方に味見をしてもらうべく冷凍したソーセージを手みやげにして御宅に向かったのである。

 

その御宅で鍋を借りて冷凍ソーセージをボイルすること数分、箸でつまみながら柔らかさを確認し、中まで温まっているのチェックしてから取り出してキッチンペーパーで水分をふく。その後これも調理の為に持参したのだけれどカセットボンベに繋げることができるガスバーナーを用いて表面を炙ったものを御三方にご賞味いただいた(これが僕の思う一番美味しいソーセージの調理法だ。あと、ボイルの温度は70℃を超えないようにしなければならない。ぼそぼそになってしまう)。

 

また、以前もこの記事で書いたのだけれど、

 

itamimati.hatenablog.com

 

手作りのソーセージにこの自作マスタードをつけると結構マジで本当に美味しいのだけれどその美味しさをあえて野暮だというのを理解したうえで説明してみると、

 

「丁寧な火入れ及び加熱でジューシーかつパリッと仕上がったソーセージとあえて酸味を強く残したマスタードを一緒に噛んでいると肉の脂とマスタードのツブツブが合わさってなんだか徐々に脳みそからも同じようなどろっとした汁が出てきてしまうんだけれどその汁を体外に放出することすらもったいねえなんて思ってしまうくらいで、でもそのまま放っておくと鼻の穴から汁が流れでそうになるので何とか啜りながら体内に留めとこうと我慢した結果その汁が副鼻腔内に溜まってしまって蓄膿症になってしまった」

 

というような美味しさである(例えが汚いのはもうしかたがない)。

 

しかしまあそれほどに美味しく出来上がったのだ。

 

そのソーセージの味見をしてくれたお三方から頂いたご褒美の言葉もそれに類するような喜ばしいコメントばかりだったのでなんとも嬉しい訪問であり、また彼女とその夫の間に生まれ育っている子供に関しても薄汚いおっさんと仲良く遊んでくれたこともあり、大満足のうちに大団円すなわちお開きの時間とななった。

 

その家を後にしようと玄関に向かったのだけれど、妻の友人が最後にいったひと言に僕はビックリしてしまった。

 

「でもあれやね、無添加でソーセージ作ってマスタードまで自作するなんて、ほんまに丁寧に暮らしてるって感じするよね。なんかうらやましいわ」

 

なんと彼女は僕に対し、「丁寧に暮らしている」と言ったのだ。

 

なんのことはない。最近見かけないと思った「丁寧な暮らし」をしていたのは、どうやら僕自身らしいではないか。

 

そしてそのような日常的な出来事をブログをしたためているということは、僕自身が丁寧な暮らしの発信者である、ということでもある。

 

たしかによくよく思い返してみると、僕は自家製のソーセージと自家製のマスタードを食べながら「んーーー!オイシ———!」つって頭ゆらしてるような状態で脳内麻薬ドバドバ決めてたわ。

 

さて、そうなると話は変わってきますが、丁寧な暮らしをすると本当に心が豊かになり、精神的にも満たされ、私の半径5mの世界は何とも平穏で過ごしやすい世界だなあ、なんて思いますね。

 

なので本当はもう少し我が家でこだわっていること、特に常備菜や自家製ジャム、庭に植えているハーブや普段お弁当をつめているワッパ、テーブルコーディネートその他諸々について書きたいと思うのですが、そろそろヨガの時間が迫っているのでこのあたりで失礼します。

 

 

 

という訳で、今からレオタードに着替えて家を燃やしておきたいと思います。

なんてったて、我、丁寧な暮らし放火魔ぞ。