低温調理は確かにヤバい。
手を出すまいと決めていたものがいつの間にか手に入っていたときに人は狂うけれど、今の僕はもうとりあえず狂っている。朝起きてから寝るまでの間、基本的に考えていたことと言えば「ねえねえ奥さん、今日こそは僕の息子を舐めてくれないかなあ」というものなのだけれど、最近はそんなことを考える暇もないくらい別のことを考えている。その別のこととはもう最初からいっちゃうと塊肉のことなのだけれど、僕がなぜ塊肉のことを考え続けているのかといえばそれは妻にanovaを買ってもらったからである。今のところフェラーリ<肉塊。もしくはエロ本<anova。それくらいにヤバい。もうストロングゼロとか目じゃないくらいにヤバい。基本的に毎日お酒は飲むしたとえばanovaは2万弱くらいするんだけれど、多分量販店ならその金額でストロングゼロが200本くらい買えるんだろうけれど、それはケースで言えば24本で割ればいいからanova1つのお金でストロングゼロを8ケースとちょっとくらい買えるんだけれど、今の僕に言わせればそれなら絶対にanovaを買った方がいいレベル。ストロングゼロ文学なんてくそくらえでマジで日常を忘れたいならアルコールじゃなくてanovaに酔え。anovaを手に入れた僕はオナニーを覚えた猿がちんこをずっと弄り続けるのと同じようにずっとanovaを弄り続けているし、手でのオナニーに飽きたらオナホとローションに移行するようにもうanovaの低温調理だけに空き足らず低温調理した肉を炙る為にキッチン用のバーナーも買ったしそうなるとスーパーで時間が起ちすぎて半分ひからびて半額になった寿司でさえもそれを買って炙るだけでもうエジプト人がミイラ作るときみたいに脳みそがトロけて鼻の穴から出てくるし、それをアテにしながらビールを飲んで事前に低温調理した豚肉をまたバーナーで炙ってスパイスソルトをかけて食べれば口の中に入る肉の量と同じくらいの涎が出てきてホントにもう外食で肉なんか食べてらんねえなあっつってまたスーパーに戻ってグラム98円のカナダ産三元豚の肩ロースとこれはもう少し高いけれどグラム150円くらいの欧州産の牛の肩ロースの塊を買ってきてまた低温調理。牛の方は常温に戻して56℃で2時間で豚の方は61℃で10時間。その間は別にビールで酔おうがハイボールに溺れようがきちんと定温を保ってくれるから好きに出来るしタイマーで出来上がりも教えてくれるからそのまま永続的にオナニーしてたって別にいい。下味さえきちんとつけてたらもう何の考えなくていい。とにかくもう手元に2万円の猶予があるなら僕はanovaを買うことを進めるし、それ以外に何かいいものがあるかって聞かれたら取り合えずインターネットで評価のいい風俗にでも行けばいいと思うけれど身体が解けるほどのフェラよりも今のところ脂の溶ける定温調理された肉の塊を欲しているよね僕ってば。こうなるとやっぱり調理器具っていうのは沼だし肉も沼。これなんとかしてソーセージに戻らないとダメだなって思っているんだけれどまあそれはそれ、これはこれ。こんなうまいもん食べてたら将来のこととか考えられないし、とりあえず肉食べてウィスキー飲んでまた気絶でもしてれば明日もきっと楽しいだろう。えへへ。
貴方には貴方のラブサンバディトゥナイがある。
絵に描いた餅、という言葉がある。
机上の空論、という言葉と同じ様な意味合いであり、いくら餅が美味しそうに描かれていてもそれが絵であるが故に食べられないからお腹が膨れない、すなわち役に立たないもの、というものの例えである。
ここから書く話は、ではどうすれば絵に描いた餅を役にたつものに出来るのかという、絵に描いた餅を絵に描いた餅ではない状態にするための絵に描いた餅のような文章である。
ちなみにではあるが、途中から織田裕二が頻出してくるのでもし織田裕二アレルギーの方がいればここで読むのを辞めた方がいいと思います。まあ本物の織田裕二アレルギーであればタイトルを見た時点でアレルギー反応が出ていると思うのだけれど。
さて、例えばエロ漫画には女性の裸や男女の行為が赤裸々に描かれているが、それらは実際には存在しない、いうなれば絵に描いた女性及び男女である。しかし餅と同じ様に絵で描かれたものであるにも関わらず、性的欲求の解消の為にはとても有為なものである。
なのでエロ本に描かれた絵は絵に描いた餅と同じ立場にありながら、絵に描いた餅と比較しても優位性を持っている。絵に描いた餅と同等であるにも関わらず絵に描いた餅以上の存在である。
ではなぜそれが成立するのかといえば、その対象が食欲ではなく性欲だからである。
食欲は胃袋を満たす為の行為であるが、性欲は玉袋を満たす為の行為である。双方ともに同じ袋ではあるが、言い換えると胃は満腹を欲するが、玉は空であることを欲する、となる。
中にものを入れたいという欲と、外に放出したいという欲。入れるか出すかの違いが、ここにあるのだ。なので1つの仮定としてではあるが、絵は人にとって出す欲を刺激するものであればその存在は成立するとも言える。
では人が性に関することで以外で何か出したいという欲求があるとすれば、それは排泄欲である。
であれば例えそれが男女ではなくとも排泄に関わるもの、排泄を促すものであれば、その紙に描かれたものは絵に描いた餅ではなく実存としての餅、すなわちお腹が一杯になる絵に描いた餅になるのではないか。
なのでここからは排泄欲を促すものをリスト化していきたいのだけれども、まず大前提として気持ち悪いもの、グロいものや精神的にしんどく感じる様なものはまず排除したいと思うが、なぜ排除するのかという説明は無用だ思うけれど、一応書いておく。
「お前はゲロを吐いている人を見て、食欲が進むのか」そう言う事だ。
なのでそれ以外に排泄欲を刺激するものをリスト化していきたいのだけれど、まず挙げられるのは上に書いた様な性的なものである。
またここで余計な口出しをしたい人達が「お前はエロいものを見ながら食欲がわくのか」という文句が聞こえてきそうだから一応註釈しておくけれど、僕は普段からAVを見ながらご飯を食べているし、入れたてのコーヒーを片手にエロ本を読んでいる時が一番落ち着く。だから人のゲロをみて食欲が沸く人はもうそれもリストに入れとけばいいじゃないか。好きにしなよ。知るかよ。
で、次に排泄欲をそそる物と言えばこれはもう便器しかなく、しかも清潔な便器というのはなんとも気持ちがいいものである。
レイモンド・チャンドラーの言葉を借りるとすれば、
「ぼくは便器を磨いたばかりのトイレが好きなんだ。トイレの中の空気がまだきれいで、冷たくて、何もかもぴかぴかに光っていて、ペーパータオルがその晩最初の一枚をそよがせて、きれいな洗面台の上におかれ、折り畳んだトイレットペーパーをそえる。それをゆっくりと味わう。静かなトイレでの最初の静かな一滴ーーこんなすばらしい一滴はないぜ」となるだろう。
その他に排泄欲をそそるものと言えば、もうない。
いや、あれですね。涙。少し前に涙活なんぞというものが少しだけ世に広がりそう、だというようなニュースをみた。泣きたいという欲求は、涙を出したい、という排泄欲の一種だろう。デトックス。
なので排泄に大切なのはお気に入りの異性(同性愛者なら同性でもいいし、無性愛者ならもう興奮出来るものなら何だっていいだろう。とにかく興奮出来る事が大切なのだ)と便器、もし可能ならば少しの涙、それだけが僕のAll my treasuresつまりは織田裕二である。
という事で、絵に描く物は餅と便器と異性とオールマイトレジャーの生みの親である織田裕二に決まったのだけれど、これだけの量を書くとなるとそんじょそこらの紙では大きさが足りないし、技術も必要になる。また、それだけの登場人物が出てくるとやはりストーリー性も重要になるのであるが、これらはまあでかい紙に書けばなんとなく出来そうな気がするし、そこにスパイスとして少年漫画的な努力友情勝利を加えると、もうそこには振り返れば奴がいるから大丈夫だろう。
なのでまずはストーリーを考えたいのだけれど、大きな悩みがある。
それは女性と織田裕二のどちらを便器に座らせるかである。
「便器に座る裕二」と「便器に座る女性」。
この二択、イクラ丼を食べるかウニ丼を食べるかと同じようにこの上なく贅沢な悩みではあるが、やはりここは女性ではなくあえての裕二でいきたい。
もちろん男女どちらかではなく餅を置いてもいいのだけれど、ただやはり便器の上に置かれた餅を織田裕二と女性が眺めているというのは風景としてとてもシュールであり、あまり排泄欲を刺激されないという懸念もある。
なのでここは裕二でいきたい。大切な事なので2回書いた。
で、便器に座る裕二であるけれど、これもまた二択が生まれてしまう。
それは「世界陸上」の時の裕二か「お金がない」の時の裕二なのかという選択だ。
便器に座る裕二が「世界陸上」の裕二であればもちろんそれは大便であるし、その場合は相手の女性は中井美穂である。
また「お金がない」の時の裕二であればそれは座り小便の裕二であるし、そうとなると相手の女性は財前直見しかない。
となると昔から財前直美のファンである僕なので、自ずと座り小便の裕二を選ぶ事となり、便器に座っておしっこをするお金がない裕二とそれを見つめる財前直美が画面に浮かび上がる。
もうそれだけで画面はいっぱいいっぱいであり、視覚的にもおなかいっぱい。そこに餅の存在は必要ないように思われるし、僕も現に今そう考えている。絵に描いた餅なのに、餅が要らない絵面の強さ。
安達祐実の母のヌードと同じくらいの強さを誇るこの絵面だけれど、これは絵に描いた餅を優位にするというテーマで書かれているものであるという特質上、やはり餅は必要になる。
であれば餅がある必然性として「お餅つき」をストーリーに組み込めば問題は解決されるはずなので、ここは排泄中の裕二を見つめる以外に仕事のない財前直見に餅をついてもらうこととし、便器に座る事でちょうどいい高さになっている織田裕二には返し手をやってもらう事になる。
この「たまたま餅つきを始めた財前直見の前に、返し手としてちょうどいい高さの位置に座っている座り小便中の織田裕二がいた」というちょうどいい偶然性は、やはりそうなるストーリーだったのか!と見る人を自然に餅つきへと誘導するのではないだろうか。画面構成としてはこれで統合性がとれたはずだ。
織田裕二が便器に座り、その目の前に臼があり、そこで餅をつく財前直見。
なかなかに迫力のある画面だと思う。
もしこれを、かの名キャメラマン木村大作が撮影でもすれば、2人の相性の良さや息の合い具合といった空気感まで含めその全てに綺麗にピントが合い深作欣二も黒沢明も大興奮。
さらにそこに織田裕二の脱糞音が相まると、現代の「あ、うん(こ)」となる可能性も見受けられるではないか。
そうなると板東英二がゆで卵を食べずに餅ばっか食う様になるかもしれないし、高倉健も「自分、不器用ですから」と言い便器の外に小水が飛ばないように座りしょんを始めるかもしれない。なんて素敵な世界。なんて綺麗な便器。
しかしこのままでは財前直見は未だ餅をついているのみであり、性的興奮するまでに及ばない。極度のドMであれば彼女の持つ杵で殴られるということに興奮を覚えられるのかもしれないけれど、残念ながら僕はまだその境地には達していない。
ではそれを打破する為にはどうすればいいかといえば、興奮を催す為には僕も画面に入り込み直美さんが餅つきによって流している汗を舐める、という行為が必要になる。
なぜそれが必要かと問われれば僕は女性の汗を舐める事が好きだからだし、お金がないの時の財前直見の爽やかな汗は化粧っけが少ない分美味しさが際立つと思うからだ。清掃で流す汗はもうそれだけで美味しい。
となると、また別の方向から「お前は汗を舐めるだけの簡単な仕事をしやがって。いくらきれいな汗を舐めてもお前自体の存在は汚いのだ」というクレームが入るかもしれないけれど、そういう人はきちんと真実を見れていない。
ここで僕はただ単に財前直美の汗を舐めているだけではなく、織田裕二の視線に耐えながら汗を舐めているのだ。しかもそれは言うまでもなく脱糞中の織田裕二である。
「脱糞をしている織田裕二が自分を見ている」
このプレッシャーに耐えられる人がこの世にどれだけいるのだろうか。
というかそもそも脱糞している人に睨まれた事がありますか。
僕はある。
昔、居酒屋に行った時のことだ。
トイレを開けるとそこに酔いと力みで顔の赤いおっさんがいた。僕も少し酔っていたので扉を締めるなどのとっさの判断が出来なかった。
そのおっさんは「すいません」や「閉めてください」等と言わず、僕を睨みながら無言で屁及び糞を出したのだ。
怖かった。
ただのおっさんでもあんなに怖かったのに、その相手が織田裕二であればどうなるか。
これ以上にプレッシャーを感じる状況はないだろう。このプレッシャーはレインボーブリッジ閉鎖の是非を決める時より、きつい。
そんな状態であるにも関わらず、僕は「この重過ぎるプレッシャー、誰か僕をラブサンバディトゥナイしてくれ!」という気持ちと「へえ、これが裕二のオーマイプレジャー?」という気持ちを抱き合わせながら、財前直見の汗を舐めているのだ。
そしてこの「脱糞中の裕二には負けたくない」という気持ちが、見る人に対しての共感を生み出すはずなのだ。
そしてここまでくれば後は言わなくても分かるだろうけれど、画面上には「努力(僕)」、「友情(直美)」、「勝利(裕二)」が揃う事となり、この絵はストーリー性を帯びる事になる。
少年ジャンプのような王道ストーリー、努力と友情が揃って勝利を収めるというカタストロフィ(脱糞)の爆発が生まれ、それを見る人は感涙に浸るのだ。
すなわち「出す」為の欲が生み出されるのである。しかもこの全てのハブになっているのは、なんと「餅」なのである。
餅が生み出したカタストロフィが、世界を包むこととなる。ファイナルファンタジーでもここまで壮大なカタストロフィを生み出す事は出来ないだろう。
これを読んだ人達の中も、いつか「それは絵に描いた餅だ」という言葉で馬鹿にされたりすることがあるかも知れない。
しかし貴方はもう以前の貴方とは違うのだ。
今、その場で貴方の心の中を覗き込んでみて欲しい。
ほら、そこにはお餅がありませんか。
真っ暗な闇の中で輝く、真っ白い餅が。
それはまだ、ほんの小さな餅米でしかないかもしれない。
しかしその餅米は貴方のかいた尊い汗と悲しみを乗り越えた強い涙と我慢しすぎて漏れてしまった小水を吸い込み、それでも諦めない情熱という名の火によって蒸され、いつか大きな餅になるはずだ。
辛いとき、悲しいとき、貴方の中にある餅を思い出して欲しい。
その餅は財前直美がついて織田裕二が返した餅ではなく、貴方が丹誠込めて育てた、貴方だけの餅なのだ。そしてその餅は、ドラゴンクエストを超えるカタストロフィを生み出す可能性を持ち合わせているのだ。
餅にはそれだけの力があることを、忘れてはならない。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございました。
さて、こう見えて僕は几帳面な正確なので一応読み返してみたんですが、これ、途中で織田裕二が脱糞してしまってるんで、世界陸上の時の織田裕二になっていますね。
謹んで訂正とお詫びを申し上げます。
サンリオのキャラを部門別に紹介したい。
サンリオ男子という深夜アニメを見始めてから、サンリオに対する興味が沸いてきている。
しかしサンリオ男子のよさをここでいくら書いてみても僕が面白いと思っているところをきちんと説明するのはとても難しいし、逆にファンの方々からは批判や顰蹙を買いそうなのでやめておく。
なので今回は趣向を変えて、サンリオのオリジナルキャラで僕が個人的に気になっているキャラをここで紹介したい。
ただ本当に無意味なランキングであることを先に書いておく。マジで無駄だし、キティちゃんやポムポムプリンは出てこないし、気分を害する人もいるかもしれない。
でも僕はこれをみてサンリオの奥深さを感じて欲しいとも思っている。サンリオは、マジで頭がおかしい(褒め言葉)。
では。
「お前、名前もっと頑張れよ」部門
まず「お前、名前もっと頑張れよ」部門から。ここでは3人(匹?)が選出された。
木馬であり、木馬以外ではありえないからなのか。その名も木馬。
君の名は?と問われても、「木馬」としか答えられない悲しさ。
もっと頑張って名前付けてやれと思った。
木馬に木馬と付けるセンス。尖ってる。
「わたし、お鍋にも名前付けてるの。えへ、メルヘンでしょ。え?お鍋の名前?お鍋ちゃんって言うの」
殺したくなる。
ただし木馬自体の可愛さはずば抜けている。木馬可愛い。
他にもまだいる。
ゾウ自転車。
彼は自転車から降りることも許されない可哀想な存在でもある。
なぜなら、自転車から降りてしまうとただのゾウだから。
自転車に乗っていることでしか得られない、彼のアイデンティティ。
悲しき動物、ゾウ自転車。名前、適当すぎる。
この部門の最後は、カモメ。
カモメである。
カモメ以外ではない。
以上。
「お前、ワードで作られたの?」部門
続いては「お前、ワードで作られたの?」部門にただ1人の選出。
ハウストレイン。
その名の通り、家と汽車が合体したキャラクター。これをキャラクターと言っていいかどうか僕には分かりかねるのだけれど、サンリオが「サンリオのキャラクター」として紹介しているので、キャラクターなのだろう。ここまでくると、キャラクターとは何なのかを考えさせられる。彼の存在はある種哲学的な問いかけでもある。
絶対ワードの図形で出来てる。
以上。
「名前負け」部門
次に紹介するのは「名前負け」部門。ここは3グループが選出された。
メインストリーム、主流という名前がついているにも関わらず、低知名度を誇るグループ。名前負けとはこういうことだ、と慣用句にもしたいくらいの存在感を持っている。グループの構成はドリカムスタイルである。多分内輪で恋愛のもめ事が良く起こるんではないだろうか。まあ、余計なお世話だ。
「お前、その位の成績しか残してないのに課長名乗ってるって、ザ・メインストリームみたいだな」
これも悲しき動物たちである。服装はとてもオシャレ。
サンリオから、シティボーイの登場である。
しかし彼からはコーネリアスの香りも小沢健二のニュアンスもサチモスの格好良さも感じられない。
だって彼はゴリラだから。
ゴリラが都会で生きる為は、野生の本能を殺してシティボーイにしかなるしかないのか。しかし野生を忘れたゴリラに、ゴリラとしての存在意義はあるのだろうか。
シティボーイだけど、ヘッドホンもしてるけれど、鼻がハートみたいだけど、でもゴリラだからオシャレにはなれない。
まったく関係ないのだけれど、僕はボゴを見ていて「僕はクマのままでいたかったのに」という絵本を思い出し、なんだか無性に悲しい気分になった。
この部門の最後を締めるのは、ギミーファイブだ。ご覧の通り、2人しかいないのにファイブ。
名前負けもいい所だ。
ギミーファイブの上位互換として、関ジャニ∞が上げられる。7人なのに、エイト。
しかしこの話を拡げるとエイターから恐ろしい報復があるかもしれないので、やめておこう。
以上。
「ほぼコピペ」部門
さて、次の部門紹介である。「ほぼコピペ」部門は1グループのみ。
見ればわかるだろう、この3匹、ほぼコピペだ。
キャラクターというより間違い探しの領域。
いつかこいつらをサイゼリアで見たいと思う。
以上。
これから紹介する部門で最後になるのだけれど、本当のことを言えば僕はこのキャラクターを紹介する為にこの記事を書いたといっても過言ではない。
その素朴な可愛さ、手抜きとも言えそうな図案の簡潔さ、キャッチーな配色、名前の語呂の良さ、その全てが別次元にあると言ってもおかしくないキャラクターである。
僕は今日から、サンリオファンだと公言する。そして僕の推しキャラこそが、こいつである。
それではご覧頂きたい。
「とにかく可愛い」部門
一目見たその時から、僕はこいつのファンになると決めた。
公式のコメントには「元気なヘリコプター君。毎日、楽しい事を探して飛び回っているよ。」とだけ書かれている。
そのコメントから分かる様にオスである。生まれは1988年。今年で30歳になる。
彼の行動はハイパーメディアクリエイターの高城剛と同じである。楽しい事を探して世界を飛び回る。つまり彼は沢尻エリカと結婚出来る可能性も持っている。恐ろしい潜在能力である。
しかも京本政樹や荒木飛呂彦のようにまったく老けない。もしかしたら可愛さを維持する為に整形しているのかもしれない。皺とり。リフトアップ。その他。しかし働いている様子がうかがえないので、パトロンがいる可能性がある。
「ねえ、僕のティルトローターでまたプルプルしたいの?僕のティルトローターはirohaとはちがうんだけどな。そんなに我慢ができないの?まだ触ってないのにビチョビチョじゃないか。しかたないなあ。じゃあ、またお小遣いくれる?」
彼がどれだけ下品なやり取りをしていてもかまわない。彼の可愛さにかかってしまえば、そんなことは些細な出来事でしかない。
色情魔の女性のお金を使って、今日もこの世界のどこかで楽しい事を探してホプティコプティが飛び回っているのか、と想像するだけで一日が明るくなるではないか。
彼が楽しい事を見つけられるように、僕は今日も祈りを捧げている。
以上。
さて、これを読んで頂いた皆様も、サンリオのホームページでお気に入りのキャラを探してみてはいかがでしょうか。
と、ここまで書いたのだけれど、実際のところ僕はキャラクターものが好きではない。
妻と一緒に暮らす時に定めた唯一の決まり事が「タオルであれ食器であれ、キャラクターが描かれた物は一切おかない」というものであり、今のその定めは忠実に守られている。
いくら僕がホプティのファンになったからといって、妻がホプティのグッズを買ってきたとしても、きっとすぐに捨ててしまうだろう。
ではなぜこんな記事を書いたのかといえば、サンリオの狂気に当てられたとしか言いようがない。
それほどまでにサンリオは狂っていて、またサンリオ男子も狂っているのだ(間違えないで欲しいが、これらは全て褒め言葉だ)。ぜひ1度でいいので、機会があればサンリオ男子を見てもらえれば、こんなに嬉しいことはない。